学習し続ける姿勢

このエントリ経由で初めてこの記事を読んだのですが、アラン・ケイのこの言葉はとても示唆的だなと思いました。

米国の多くの学校は、子供がGoogleで何かを見つけコピーすると、それで学んでいると思っている。しかし私は、子供がそれについての作文を書かない限り学んだことにならないと主張している。作文は思考を組織化する。単に博物館の展示物を集めるだけではない。しかしほとんどの学校はその違いを分からない。


後藤貴子の米国ハイテク事情
http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0925/high43.htm

子供についての発言ですが、大人と言うか少なくとも子供ではない年齢になったとしても、何か学ぶべきことがあるならば、それをブログでもいいし、個人的なノートでもいいし、単なるコピーの発見からそれを自分の思考の一部にしていくようなプロセスが必要だと思います。なんというか、血肉化していく作業というか。

そしてそれを普通だと思い込み、すぐに二者択一的な考えをする。しかしまず自分が気付いていないということに気付いてみよ。すると、ほかに方法はないか考えるという科学的思考が始められるようになる。世の中の人が皆そのような理性を身につければ、科学は進歩し、短絡的な善悪判断による紛争もなくなるかもしれない。

気づいていないという事に気づくためには、まず「(自分が至らないから)気づいていないかもしれない」という不安を抱え込む事が必要ですね。特に大人になってからは、その不安に耐え続ける事が大切なのかなと思います。